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Dec 17 2022
建築家である白井晟一(1905-1983)は自身の書作品のなかで「無伴」のモチーフを好んで使用しました。彼の書作品をまとめた3冊の書帖において、唯一全てに見られ、好んで使用したモチーフがこの「無伴」です。彼は書帖の一つである『顧之居書帖III』(1978)において、「無伴」書の語録に以下のように記しています。
伴なうもの無し。己自身を攻めぬくことによってようやくに保ち得るもの。頼ることも頼られることもできぬぎりぎりの断崖に立ったときを思う——だが、日常いつもそのようにあることは難しい。己ひとりを漸くに保つ。(白井晟一, 1978)
「無伴」であるということ。伴いなく、己を保つということ。それは今日の私たちの生活とは、いささか隔たりのある状態のようにも思われます。新型コロナウイルスによるパンデミックのもとで、人々が強い孤独を、また同時に多くの連帯を求めていたことも私たちの記憶には新しいです。ただ、それでもなお自ら孤立の中へと突き進むということ、己と対峙し、その断崖に立つということ。——白井晟一は「無伴」のどこにその有意性を認めていたのでしょうか。
私たちの生活はある種の「有伴」性に溢れています。それはSNSの拡大に見られるような連帯に対する欲動、あるいは肩書きを名乗ること、それを必要とすることに見られるような、ある社会的な印象を有した共同体への帰属欲求からも垣間見えます。そこには、自分ではない他者との連続性を獲得しようとするはたらき、それに伴う人間の没個性への憧憬をも見ることができるでしょう。ただ、今日多く見られる個性、各人のアイデンティティを重視しようとする一種の「流行」、そのパラダイムからは、他者との非連続化の追求すら見受けられます。このような私たちの連続化と非連続化のアンビヴァレンスは、フロイトの言うところの融和原理と闘争原理の中で揺れ動く、人間のエロティシズムにも通じるものるがあると言えるかもしれません。あるいは人間がポリス的な動物とするアリストテレスの認識(ゾーン・ポリティコン)からもこうした帰属欲求に対する説明をすることができるでしょう。
こうした何者かに帰属すること、その孤立の如何について、フランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)は『重力と恩寵』の中で以下のように述べています。
完全に執着から脱け出るためには、不幸を味わうだけでは十分ではない。慰めのない不幸が必要である。(中略)奴隷の本性を帯びること。空間と時間のなかで自分の占めている一点に凝縮すること。つまり、無に帰すこと。現世の仮装の王位を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。そのとき、人は現世の真理をもつ。(シモーヌ・ヴェイユ, 「執着から脱け出すこと」)
絶対の孤独。まさに「無伴」そのものとも言えるこの状態は、私たちにとってほとんど不可能なようにも思われると同時に、また永遠に可能なもののようにも感じます。それは「私」という一つの主体が、原理的に「私」そのものを脱し得ないことに依拠します。これを、言語の記述性という側面から考えるとどうでしょうか。オーストリアの哲学者であるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は「私」ということの記述性について『論理哲学論考』(1921)の中で以下のように述べています。
私とはわたくしの世界にほかならぬ。(つまり、小宇宙。)思考し表象する主体なるものは存在しない。『わたくしの見出した世界について』という表題のもとに、わたくしが一冊の書物を著わしたとしよう。その書物は、わたくしの肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないかなどについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体である。主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。(ヴィトゲンシュタイン, 1921)
ヴィトゲンシュタインは世界を記述する存在としての自己について述べる中で、また同時に記述する主体だけが記述されないことについて述べています。ここに見られる主体は常に世界に対して独立しているのであって、このような見方に、ひとつの「絶対の孤独」の原理的、永遠的なあり方を見ることも可能かもしれません。
執着から孤立し、独立するということ。シモーヌ・ヴェイユは先の引用文の中で「空間と時間のなかで自分の占めている一点に凝縮すること。」とも述べていました。ではここで語られている「時間の中で凝縮され孤立された状態」とは一体どのようなものでしょうか。
哲学者である鷲田清一(1949- )は『「待つ」ということ』(2006)のなかで以下のように述べています。
口では『過去の』と言っているが、それは本当に過去の出来事なのではない。(中略)そう、いつまでも過去になってくれない出来事、『いま』から滑り落ちてくれない出来事である。(鷲田清一, 2006)
ここにおいて鷲田は「過去」というものが、つねに「現在」において存在することについて触れています。また次のようにも述べています。
言葉はひとを『いま』から引き剥がしてくれるものである。言葉によってひとは時間の地平を超える。(中略)目の前にあるもの(現前)から離れることができるということ、それが希望と追憶を可能にし、誇りと落胆をもたらす。(鷲田清一, 2006)
時間の現在性。私たちは過去の出来事を現在において「有伴」します。そこに私たちの時間的な拡散性、過去と現在、未来の総合体としての現在の表象を見ることができます。このようにして私たちの空間的、時間的なあり方を検討する中で、私たちの生活における「有伴」、またその多様性が浮かび上がってくることと思われます。
いくつかの文献をもとに、ここまで「無伴」ということについて考えてきましたが、最後にアメリカの作家である、スーザン・ソンタグ(1933-2004)が日本で行われたシンポジウム「この時代に想う(The Tokyo symposium: In Our Time, In This Moment, April 28 2002)」にて述べた内容を参照したいと思います。これは『良心の領界』(2004、NTT出版)に収録された内容です。
ソリテュードは必要です。内面生活としての孤独。ある意味で、そこにその人がいるのです。自分の内部に、そして、さらに深い場所へ行くのです。でも、連帯は必要です。孤独は連帯を制限し、連帯は孤独を堕落させる。(中略)私がつねに行ったり来たりしているということ、孤独と連帯ののあいだを往復しているという点では、一貫しています。そのどちらにも、絶対的な必要性を認めるからにほかなりません。(中略)孤独と連帯という二通りの理想的な状態は相克している、という事実を受け入れるべきなのではないでしょうか。全面的な相克ではなくとも、部分的な相克。(スーザンソンタグ, 2002)
孤独は連帯を制限し、連帯は孤独を堕落させる——そしてそれらは互いに相克している。これは端的に孤独と連帯の性質について表現したアフォリズムと言ってもよいのではないでしょうか。
今日私たちの生活は科学技術の発達(あるいは西欧化)に伴い次第に変化しています。インターネットの普及はある場合において、インフラストラクチャーとしての有意性を示すとともに、私生活におけるパブリックな状況の拡大をも示しています。この潮流に伴い他者との関わりが強化される中で、「無伴」としての態度は、私たちを「孤独の堕落」から救済する一つの手段となり得るのではないでしょうか。
-石原遼太郎
参考文献