Ryotaro Ishihara

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静寂の遠近——反静寂について

Feb 14 2023

人がかくも熱心に言葉をとり交わし合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?(浅田彰, 『構造と力』1983)

 私は最近、以前にましてテレビ番組が苦手になり、また静寂に対する渇求が強まりました。

 テレビ番組が以前よりも苦手になった理由として考えられる要素はいくつかありますが、私は昔からテレビ番組があまり好きでないことを鑑みると、体質的にテレビ、その媒体を介して放送される多くのコンテンツに共通する音や色彩、テンポやテレビ番組の置かれた空間の広がり方そのものに抵抗があるように思われます。もちろん今日にいたり、思想的な立場からして、私にこのメディアに対する批判的な面があることは否めませんが、元を辿れば以上のことは私の神経過敏な傾向に起因するものであり、その中でもテレビをもって私に最も苦手と感じさせるものは、音です。

 テレビ番組、あるいはそのコンテンツにおいて使用される音の種類はさまざまですが、この多様性は一つの観点において一定の整合性を認めることができるように思われます。それはすなわち「反静寂(Against-Silence)」です。テレビ番組にも、音の多様性こそあるものの、静寂が訪れないことについては極めて徹底的です。私は多くのテレビ番組におけるコンテンツが、この「反静寂」としての意識的、あるいは無意識的なイデオロギーのもとに、その音選びが為されていると思うことを禁じ得ません。

 ではこのメディアに「反静寂」としての態度を取らせるものは一体なんでしょうか。そもそもテレビ番組がマス・メディアである以上、結果として流されるコンテンツは、何らかの形でマジョリティの需要を満たすものです。その見地からして「反静寂」は市場的な価値、商業的な支配力を持っていることもまた確かなわけですが、では人々に「反静寂」を要求させる動機は一体なんでしょうか。——それは一種の「静寂恐怖症」ではないでしょうか。

 静寂恐怖症、それは沈黙の生理的忌避ですが、たとえばこの精神的傾向は今日のメディアの「速さ」にも見ることができるように思われます。今日普及しているSNSを見ればその傾向は明らかですが、TikTokの台頭からYouTube Shortに至るまで、コンテンツは秒単位に切り刻まれ、また切り詰められたタイム・パフォーマンスによって生み出される、徹底的な沈黙の淘汰としての反静寂的態度は、ここでもやはり商業的なイニシアチヴを握っているように見えます。そして徹底的な沈黙の淘汰は人々にある種の酩酊状態を催し、思考の敗北を助長します。なぜなら私たちが思考を発芽させるのは、ものごとの間隙の緊張と静寂においてであり、理性を必要とする状況の屹立に邂逅したときにおいてであるからです(私たちが車で狭い路地を走る時に、少しスピーカーのボリュームを下げたくなるように)。ではなぜこの思考の敗北の助長ともいうべき「反静寂」が多くの支持を集めるのでしょうか。それはもちろん私たちが酒盛りをするように、私たちがそもそも個々の非連続を克服したがる衝迫を持っていることにも起因するでしょうが、それ以上に今日の反静寂主義メディアのその徹底ぶりは、ある種の非静寂に対する中毒性を暗示するもので、ここから一つの原因が導き出せるのではないかと思われるのです。つまりそれは、非静寂に対する精神依存傾向、「非静寂依存症(Non-Silenceism)」です。

 非静寂依存症傾向は、死への恐怖と同時に、自身の自律的状態に対する恐れもまた孕んでいるように思われ、また非静寂に接する時間が長くなるほど比例してこの傾向も強まるように思われます。ただこの非静寂依存における思考の縮小は、同時に強い暴力性を有しているように思われ、これは私が先に記した思想的な立場からの批判とも強く関連するものです。

 そもそもテレビ番組というのはそもそもマス・コンテンツな訳ですが、これが大衆媒体を介するコンテンツである以上、常に傲慢と欺瞞の危機に瀕するのであって、暴力性を伴うことは否応なしであり、避けることができません。つまりこのメディアの規格の大きがゆえに、それに関わり、接する各人が、そのメディアにおいて共有された価値意識が普遍的なものであるという錯覚、その慢心を形成するに容易いのであり、その点においてマス・コンテンツは常に印象操作的作用を有しているということです。もっと言えば、マス・メディアはその性質上、常にプロパガンダ的です。それがゆえに報道機関は常日頃その科学性を問われているはずです。

 この暴力性を忌避したい——あるいはしなければならないと私が感じる大きな要因の一つに、「全体主義への危惧」というものがあります。全体主義とは、個人の利益よりも全体の利益を優先させ、全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制のことであり、一つのグループが絶対的な政治権力を全体、あるいは人民の名において独占するもののことです[1]。ここで問題となるのは、民族などの一定の条件を満たした共同体がその中心として措定されることであり、またそのことをもって、人間が人間をして「余計な者」たらしめ、人間の複数性を否定することです。そして「反静寂」のもつ暴力性は、そうした全体主義に転じさせる危惧をはらんでいる、私はそう感じざるを得ないのです。それはなぜか。

 ドイツ出身の政治哲学者であるハンナ・アーレントは全体主義の特徴として、「思考の欠如」を掲げ、これは「思考に動きがなくなり、疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態」を指すものでした[2]。アドルフ・ヒトラーも実際に「読んだものを全部信じる人」を対象にして新聞による報道政策を展開したとされています[3]が、こうした「思考の欠如」としての全体主義の特徴は、「反静寂」に見られる思考の排除の構造と酷似するものであり、こうしたことから私は反静寂主義的なメディアには常に危惧を覚えるのです。(ナチス・ドイツにおいてプロパガンダを司る部門であった帝国国民啓蒙宣伝省が積極的に取り入れたのも、ラジオ・映画などのマス・メディアでした[3]。)

 以上の思索を踏まえると、私が以前にましてテレビ番組が苦手になった理由が見えてきたように思えます。フィジカルな抵抗感に加えて「反反静寂主義者」、あるいは「反静寂恐怖症」としての性質が強まったのではないかと。

 私はこのトピックを扱うにあたり、「静寂」という語を幾度となく使用してきましたが、ここで私が言っている「静寂」とはなにも0dbの状態を指しているわけではありません。私が語りたかった静寂とは、およそ枯山水のような静寂、音楽と音楽の切れ目のような静寂、ジョン・ケージの『4分33秒』のような静寂のことです。それは雅楽において静寂(しじま)が「無」ではなく「有」であることのように、音の欠如ではなく充満としての静寂について私は語りました。もちろん私たちは静寂の中だけでは生きてはいきません。それは極めて退屈です。ただふと、静寂に耳を傾けたときに、私たちはわざわざこしらえることをしなくても、実はすごく身近なところで、美しいノイズが満ちていることに気づかされるかもしれません。音楽は静寂の中にしか生まれないのですから。

-石原遼太郎

2023年12月 加筆

参考文献

  1. コトバンク、「全体主義」、ブリタニカ国際大百科事典-小項目事典、2023年2月13日アクセス、https://kotobank.jp/word/全体主義-88533
  2. 矢野久美子、『ハンナ・アーレント』、2014年、中央公論新社
  3. 嶋田直子、『ナチス・ドイツの報道操作』、2015年、早稲田大学大学院文学研究科紀要
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