toro 001
Dec 3 2022
時折、何かを書き記さなければならない、という感情に駆られることがあります。「書き残す」と表現した方が適当かもしれません(それはその動機となる感情を見つめて最も共有する要素が多い表現記号を直感的に選択してのことです)。
言葉によって表現すること。それはある名付けられる前のあらゆる連続なる漂いのようなものを区切り、識別し、遮断することの偏見でもあり暴力でもあります。その上で人が言葉を有するということは非常に興味深いもので、私は残りの人生を生きる上で、長い時間をかけて考えなければならない一つの大きなテーマのようにも感じます。
「考えなければならない」と私は表現しましたが、「〜しなければならない」という感情は一体何に由来するものでしょうか。例えばそれをダーウィン論的に見るならば——どうでしょう。私たちの祖先はこうした定言命法的システムをもって生存可能性を高めてきたのでしょうか。
いずれにしても、そもそもなぜ何かを書き残さなければならないと思うのでしょうか。こうした感情は少なくとも自己に由来し、自己を目的とする、自己愛他ならない性質のものであると思われます。ただ、たとえば、これもやはりダーウィン論的に考えてみるならばどうでしょうか。自己愛に由来する「書き残す」という感情は人間というひとつの種の恒常性、ホメオスタシスに寄与している可能性もあるのではないでしょうか。
そもそも私は「自己愛」という言葉こそ用いましたが、今日この「自己愛」が否定的な意味合いを帯びることが多いのはなぜでしょうか。これも煎じ詰めれば自己愛に由来するのではないでしょうか。多くの人が成長する過程において、社会や共同体の中で生きる必要性が求められますが、精神分析学的に言えばこの段階で多くの人が大なり小なりの現実原則を発現させます。そして「自己愛」はおおむね快楽原則に所属するものとして、憧憬と批判の対象となり得ることが考えられるでしょう。これは人間の自己恒常性としての防衛規制としての側面からも考えることができるように思われます。
自ら用いる言葉はつねに顧みられるべきです。言葉が普遍的に伝播されるときにはその語を構成していたはずの構造が失われて、その語の持つ表面的なイメージだけが一人歩きしている場合がよくあります。「自己愛」という言葉にしてもそうです。そしてまた「自己愛」がダーウィン論的に今日人間に多く備わっているからと言って、この概念自体の是非を問いているわけではないということにも注意が必要です。因みに、「〜である」から「〜すべき」を導き出すことを「自然主義的誤謬」と呼ぶそうです。いずれにしても「自然科学」と「倫理」を混ぜこぜにして考えることは非常に危険なことです。「科学」や「倫理」は相対化されるべきです。——それが私の「倫理」です。
書き残すということ、それをたとえば「歴史の一回性」という視点から考えてみるとどうでしょうか。普段私たちは時間を直線的なものとして考えています。「7分後に電車が来る」、「あと1時間以内に課題を出さなければならない」といったように私たちは客観的な値として伝達可能な、時間の記号表記の方法論にのっとってスケジュールを管理し、待ち合わせをし、生活をしています。もちろん世の中には円環的時間観というものも存在すれば、ハイデガーに見られるような〈現に〉の表現形式としての時間性という見方もまた存在します。ただ、「時間観」そのものも言語表現によって成り立つということは留意されるべきです。そしてカントは人間は経験に先立つ形で(ア・プリオリに)空間と時間を認識するとしましたが、これは言語行為というものが人間の本来的な営みであることを示唆するものかもしれません。いずれにしても「歴史の一回性」とは時間を直線的なものとして措定したときに提出される視点ということになります。
「歴史の一回性」、あるいは歴史的歴史においては、一度起きたことが二度起こることはありません。そして私たちがこの「一回性」に直面して覚える感情は「恐怖」です。これをダーウィン論的に見れば「一回性」に対する「恐怖」を覚えた者が、その生存可能性を高めたということになります。
では生存可能性を高めた「恐怖」のもつ機能とは何でしょうか。それはひとつに恐怖を回避しようとする欲求を抱かせることであり、それによって自身の存在を脅かす事象を未然に回避することであるように思われます。
「カメラの発達」、これは歴史の一回性への恐怖の一つの表現形式です。——「録音技術の発達」、これもまたそうでしょう。——そして「書き残すこと」、これも「歴史的歴史」に対抗するひとつの手段と言えるでしょう。
これらは総じて、「像をつくること」と言えるかもしれません。いずれも生きた現実と写像形式を結ぶものです。「像をつくること」を介して私たちは誰かが残した思考や技術を未来へと繋ぎます。そしてそれは種としてのホメオスタシスに関わっているとも考えることができそうです。そして「何かを書き残す」ということ、つまりは「像を残す」ということ、それは人々が子孫を残そうとするような、何か本能に裏付けられた人間の根源的な欲求なのかもしれません。そしてそれは「私がここに存在した」ということを示そうとする、自己愛そのものなのかもしれません。ただ先にも述べたようにこのことの是非を問うにはまた別の議論が必要です。
- 石原遼太郎
2024年5月7日 修正
2024年10月29日 修正